2015年5月12日(火)
プレステージディナー2015の余韻も冷めやらぬ翌朝、宿泊された参加者の皆さんとともに味わう朝食バイキング会場は、川面を眺めながらのフレンチレストラン「ル・バラト」です。
食後、髙橋千秋シェフと一緒に感動の記念撮影、パチリ!
朝食後に、高井瑞枝先生(トータルフード・コーディネーター)のご紹介により、髙橋シェフにお話をお伺いすることができました。
髙橋千秋 総料理長のプロフィール・数々の受賞
1951年(昭和26年)北海道白楠町生まれ
・レストラン「コートダジュール・赤とんぼ」を皮切りに渡仏。パリ郊外三ツ星レストラン「カメリア」で、人間国宝シャン・ドラベーヌ氏のもとで修行を積む。帰国後も東京、札幌、神戸、函館と、一流ホテル・レストランで食の完成と技に磨きをかける
・2002年(平成14年)「シャトレーゼガトーキングダムサッポロホテル&スパ・リゾートに移籍、現在に至る
・その腕前は海外でも高く評価され、王様のコック長と呼ばれる氏を称えた「エスコフィエの弟子」の称号を受賞
1996年(平成8年)
・日本ディック社より発刊された料理書『新西洋料理』の中で、日本スペシャリティーシェフに選ばれ紹介される
1997年(平成9年)
・食通達にとって最高のプレステージを持つ団体『シェーヌ・デ・ロティスール』協会の金メダル賞を受賞
・同年チャリティ活動を熱心に行い、イギリスのワールドマスターシェフズ・ソサエティー(アン王女主宰する世界40カ国のシェフ、美食家たちで組織する団体)の金メダル賞を受賞
1998年(平成10年)
・厳しい審査のもとに選び抜かれた最高の技術を認められ、フランス料理界でも最高の権威のある団体アカデミー「キュリネール・ド・フランス(フランス最高料理家アカデミー)の名誉賞を受賞
2000年(平成12年)
・クラブガストロノミック・プロスペールモンタニエ聖フォルチュナ・シュヴァリエ料理勲章を受章
2004年(平成16年)
・八重洲会(日本最高料理家アカデミー協会)の名誉金メダル勲章を受章
・アメリカ・サンフランシスコ、リッツカールトン・ザ・ダイニングで北海道フェアを開催、国内外に高い評価を得る
著書に『総料理長・髙橋千秋の世界』、写真集『ばらとの四季』等があり、名実ともに北海道を代表するシェフです。
料理人として
小学校3年生から包丁を
「実家が酪農を営んでいたので、小さい頃から家族皆で手伝いをしていました。私は、9人兄弟の末っ子。兄が空気銃で鳥の狩猟を行っていたので、一緒にリュックを背負って猟犬を連れ鴨を捕りに河に行ったものです。
また、母は料理が上手で、その中でも魚をさばくのが最も得でした。私は小学校3年生の頃から包丁を持って手伝っていました。魚だけでなく、当時野放しにされ野生になったうさぎやミンクを捕まえては、捌くのを手伝っていました。
ホテルの料理人になったとき、魚・肉を難なく捌いていることを先輩に大変驚かれました」、
と話される髙橋シェフのお言葉から、酪農、狩猟、漁業と様々な生活環境の中で小さい頃から育まれてきた貴重な体験が、今の髙橋シェフの基礎となっていることを感じました。
東京での修行:「赤とんぼ」そして「ホテルオークラ」時代
髙橋シェフは、東京で修行し3年間の実務経験で調理人資格を取得、さらに、仕事をしながら通信教育を受け、高校を卒業されました。
「中学を卒業した15歳のとき、東京を目指し18時間かけて夜行列車で向かいました。列車に揺られながら、日本で有名なホテル・レストランはどこだろうと考え、思いついたところが『帝国ホテル』『ホテルオークラ』でした。東京についてから、ホテルオークラへ直行し、総支配人に合わせてくださいと懇願。ロビーで待っていると支配人が現れ、料理人になりたいという私の話し聞いてくれました。
『髙橋くん、ホテルオークラには、450人くらいの料理人がいます。修行は、従業員食堂からの料理作りから始まり、ウエーターを経験し、ようやくキッチンに入れます。タイミングが合わないと、なかなかホテルの料理人にはなれないものです』という総支配人のお話し。
そのことを理解し、生活のために、レストランで働くこと決め、当時募集があったレストラン「赤とんぼ」(虎ノ門)の門をくぐり採用されました。そのお店は、カレーの有名店で、当時全日空の機内食(サンドイッチ)を提供していました。三鷹市内にアパートを見つけ、そこから虎ノ門通い。朝3時半から出勤しサンドイッチ作り、それが終わると6時からカレー作りを毎日こなしました」。
この時期が髙橋シェフの原点になっているそうです(赤とんぼには2年間程勤務)。
この間、ホテルオークラへの就職を諦めることなく、毎日のように、ホテルに入りたいという想いをこめた手紙を書き総支配人に封書で送付。2年間にわたり手紙を送り続けたところ、総支配人から連絡がありました。
「こんなに毎日手紙を書いて想いを綴った人は、いままでに一人もいません。社長に手紙を見せた所『こんな熱意のある子はいないので、どこでもいいから使ってあげなさい』という社長のOKがでました。
髙橋さん、持っている一番良い服を着て、明日来てください。ホテルは、戦国時代で言えばお城です。ホテルに一歩入ったら、料理人として極める気持ちをもって高い意識で臨んでください」というものでした。
早速、髙橋シェフは、靴を丁寧に磨き、ワイシャツにネクタイをし、一張羅のスーツを着てホテルへ向いました。
そして、最初に配属された場所は、従業員食堂でもウェイターでもなく、最初から洋食のキッチンでした。
「宴会などが多く、多くの仕事をしなければなりませんが、やる気が強かったので、苦になりませんでした。誰よりも朝早くから出勤し、先輩方の下準備など、他の人がやらないようなことを率先して行いました。
食器洗い担当は何十人もいるのですが、『誰にも負けない』との想いで、重い銅鍋を顔が映り込むまでピッカピカに磨いたものです。先輩がきれいな鍋に驚いて『誰がこの鍋を洗った!?』と聞かれたりしました」と無我夢中で過ごした日々を熱く語る髙橋シェフ。
ホテルオークラでの3年間
「当時のホテルオークラには、セクションが30程ありました。私は、様々なセクションに配属されました。普通同じセクションに3~4年配属されますが、私の場合、短いところでは1か月もいないことがありました。
『何故自分は、長く置かれないのだろうか、必要とされていないのではないだろうか?』悩み、悔しい想いを抱いていました。
その当時は短い期間の配属の意味が理解できず、セクションを変えたセクション長を恨んだことさえありました。最終的には、ほとんど全てのセクションを経験していました。
当時の師匠は、嶋村光夫 セクション長。『見込のあるものには、より多くのセクションを回らせることが、経験と実力につながるものだ。おまえは、これからどんな所ににいっても、どんな料理をしても苦渋することはない。それだけの経験と技を習得したのだから』と最後に言われた親方の有り難いお言葉で、全てを理解することができました。
20歳前後の私を見込んでくれたありがたさをこの時実感しました。洋食全般の全てを経験したのは、当時私だけだったかもしれません。
嶋村光夫 師匠に今だに言われることは『あの時の経験があったからこそ、今の君がいる。今は、どんな料理のオーダーを受けても、考えること無く手が自然に動いて料理をこなすことができるだろう!』というお言葉です」。
じっくりと言葉を噛み締めながら、髙橋シェフは語ってくださいました。髙橋シェフにとって、ホテルオークラでの経験は、あらゆる料理をこなし、どんなオーダーにもその場で総合的に対処・対応が可能な料理人へと導いていきました。
※ 髙橋シェフの師匠である、フランス料理の名シェフ・嶋村光夫氏(1930年東京都生まれ)は、帝国ホテル、ホテルオークラなどを経て、1987年にロイヤルパークホテル(東京都)の総料理長に就任。1994年フランス農事功労騎士章、1998年オフィシェ フランス農事功労騎士章、2005年黄綬褒章など国内外で多くの受章・受賞を重ねる。2006年にロイヤルパークホテルを退職。
フランス高級レストラン「カメリア」での3年間
当時、フランス料理は最高の料理。ホテルオークラでは、フランスのレストランと提携してフェアが開催されていました。
髙橋シェフがホテルオークラに3年務めた20歳の時、フランスへの話しが舞い込み、渡仏。フランス高級レストラン「カメリア」(料理人最高権威者ドラベーヌ氏のお店)で3年勤務、本場で腕を磨かれました。
「函館ハーバービューホテル」「シェラトン」そして「シャトレーゼ・ガトーキングダムサッポロホテル&スパリゾート」
帰国後北海道に戻り、函館ハーバービューホテル(函館市)・シェラトン(神戸市)に14年間勤務。その後、50歳のときに、シャトレーゼガトーキングダムサッポロホテル&スパリゾート(札幌市)へ移られました。。今年で13年目を迎え、現在に至ります。
高井瑞枝先生(トータルフード・コーディネーター)との出会い
「私が、函館ハーバービューホテルにいた時の食事会(イベント)に高井先生が参加されました。そこで出会った時が最初で、高井先生とは20年来のお付き合いです。
高井先生は、私のイベントにはいつも来てくださって、様々な素晴らしい人々を紹介してくださったり、一級品の食材を紹介してくださったりして、とても有り難い存在です」と髙橋シェフ。
信念
明るい対応で、すべてを前向きに考える姿勢
「職場のスタッフたちには常に明るく元気で接し、楽しいこと良いことは、大きな声で皆で喜びを常に分かち合っています。すると、若い人々のやる気が沸き起こって、どんどん良い方向へ進んで行きます。
昨日のディナーでは、ホテルの全てのセクション(和食・中華・鉄板など)のスタッフが仕事をしています。スタッフみんなが、自分のセクションの仕事だけでなく、お互いに協力し合い、助け合いながら仕事しています。
他のセクションの仕事を手伝うことによって、お互いがそれぞれの仕事の良さや大変さを知る良いきっかけとなり勉強になります。ホテルの中で協力しあうことで、色々なセクションを経験できる貴重な体験になっています」と前向きな姿勢で行動される髙橋シェフ。
築き上げてきた信念「与えられたものは、絶対に失敗しない」という姿勢
「今まで、実際に一度も失敗はありませんでした。仕事を与えられて実行する前には、徹底的に本を読んだりしてあらゆる情報を収集し、自分の中に吸収してから実行に移しました。『失敗しない』という信念は、母の教えが基本となっています。
『飯寿司を作るときも、漬物を作るときも、野菜は一つ一つ違うもの。塩加減は毎回異なる。季節ごとにも、作る度にも変わっている野菜の状態を把握しながら料理を変化させて味付けをしていくことが大切』ということを教わってきました。
料理をする前に五感を使って食材を確認し、出来上がった状態を予想するという、事前の準備が大切だという基本なのです。
魚や肉をい使うときでも、レシピのまますぐに調理するのではなく、材料を触ったり、裏返したり、突いたり、匂いを嗅いだり噛んで味を確認することが大切なのです。食材の状態を五感で確認して、出来上がり状態を読んで料理することは、母親から自然に学んでいたことです」。
お母様のお言葉「頭に描いたことは言葉にしなさい。そうすれば必ず実現します」
「亡くなった母親の言葉は『頭に描いたことは言葉にしなさい。それがとんでもないことでも、誰かが心の片隅に描いてくれるのもです。ものごとは、言葉にすると必ず実現します』です。この母の言葉を私はいつも心に描いています。
そんな母に対して大変残念なことがひとつあります。それは、83歳で亡くなった母に私の料理を食べさせてあげられなかったことです」。
人生最後の仕事「人生最後に、もう一度食べたいと思えるような美味しいお料理を作ること」
「立派なホテルでの料理も大切ですが、人生最後のときに『あのお料理が美味しかった』と想われるようなお料理(ソース・スープ)は大切な思い出です。人生の中で『最後にもう一度あの料理を味わいたい』と思われるような料理を作ることが、自分にとって最後の仕事だと思っています。
以前、私を可愛がってくれた帝国ホテルの村上先生の料理研究所のメンバーだった頃の話です。先生から「高齢者のお客様から『人生最後に食べたいものは、帝国ホテルのコンソメスープです』という嬉しいお話をいただきました」というお話を聞いて、人生において、食べものは文化であり、とても大切なものであることを実感しています」と髙橋シェフ。
小さい頃から、生かし生かされる生命の循環を生活環境の中で実践し、「命をいただく」ことの尊厳さと偉大さを実感して、「食」という道を歩んでこられた髙橋シェフです。
「すべてを前向きに明るく、
成功する自分を描いて歩んでいけば必ず実現する」、
というお母様のお言葉と重なり合う髙橋シェフの人生。
髙橋シェフの限りない誠実さと忍耐と絶え間ぬ努力に
大いなる尊敬と感謝と祈りをこめて。。。
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シャトレーゼガトーキングダムサッポロホテル
北海道札幌市北区東茨戸132
Tel:011-773-2211
【チェックイン/アウト】
・15:00 / 11:00
【宿泊した部屋】 洋室ツイン
【温泉/貸切風呂】妖精の泉(加温・循環ろ過) / なし
【インターネット】全室対応・無線LAN
【ホームページ】シャトレーゼガトーキングダムサッポロホテル