高井瑞枝先生「北海道と沖縄・人と食の橋」(札幌市在住)

2014年12月10日(水)

11月8日(土)、9日(日)の2日間、沖縄県糸満市「ファーマーズマーケットいとまん うまんちゅ市場」にて、高井瑞枝先生(67歳)率いる「北海道フェア」が開催されました。

北海道からの参加は、ファーマーズ・クラブ雪月花(妹背牛町)、合同会社 北の杜倶楽部(旭川市)、有限会社 丸二永光水産(枝幸町)、そしてJAきたそらち(深川市)・北竜支所(北竜町)の皆さんです。

北海道の新米(ゆめぴりか、ななつぼし)、北海道の豆類(金時、黒豆、黒千石等)、北海道野菜(じゃがいも、かぼちゃ等)、オホーツク海の魚貝類など北海道の特産品が並びました。

「北海道フェア」開催に先立つ10月23日(火)、お忙しいところ高井先生に「北海道と沖縄の橋渡し」に関するお話を伺いました。

大会瑞枝先生

▶トータルフード・コーディネーター 髙井瑞枝先生(食・工房ミイロ 代表)

高井先生は5歳の時から食に関わり、18歳からリュックを背負い単身で海外へ渡航、食に関する本格的な学びを開始。生産現場に出かけ、畑の土を読み、動物の解体を学び、各国のお料理やケーキづくりなどを習得。世界各国で、料理指導や食品加工指導など食に関するあらゆる仕事をする中で、様々な場所で沢山の人々との感動的な出会いに導かれています。

▶ 食に関わってきた50年

1947年(昭和22年)
・6月30日北海道音更町生まれ、枝幸町育ち
・獣医(大動物の臨床医)のお父様の教えである「命を戴く食べもの」という考えが、高井先生の「食に関わる人生の原点」となる

1965年(昭和40年)
・高校卒業後食を学ぶために、18歳で40kgもの生活必需品を詰めたリュックを背負い単身で沖縄に渡り、そこから世界中を旅する。旅先で出会う人々から「ミイロ」という愛称で呼ばれ多くの人々に愛される
・英語を覚えようと、汽車から降りては野原に寝っ転がって辞書の単語を暗記。「覚えた単語は絶対に忘れない」との覚悟で暗記したページを破っては捨てていった
・訪問先については、事前に十分に調査。現地に到着後、おかしいと感じたら近づかず危険を回避。身についたものこそが自己の財産となることを体感する

1972年(昭和47年)
・24歳のとき北インドにて、スパイス作りについて土作りから作付け・収穫・加工・ブレンドなどを学ぶ。その後、日本料理・四川料理・インド料理を数か国で学び、ギリシャでは大動物の屠殺・解体を習得

1977年(昭和52年)
・29歳、食についてさらに学ぶために、米国アラスカ州のコミュニティ・カレッジに入学。フードサービスのテクノロジーとマネージメントを学ぶ。土壌学、建築学、心理学など総合的に幅広い分野を修学
・心理学の授業では、その内容が複雑で、「私は食に関することを学びたいのに・・・」と考えていた。しかし、「人の居ない所には、食はないんだよ」という心理学の先生のお言葉に衝撃を受け、「人間の心と食べものは一体となっている」ことを痛感。食べものは、身体を形成するだけでなく、人間の心に大きな影響を与えていることを学ぶ
・「食べものは、太陽・土・水などの自然環境の中、作る人・食べる人など多くの人々よって育まれ、支えられているもの。あらゆる食べものに対する深い愛情と思いやりが大切です」と高井先生

1978年(昭和53年)
・30歳、結婚。アラスカで出会った高井收さん(現・小樽商科大学名誉教授)と8回目のデートで結婚

1979年(昭和54年)
・31歳、ホテル、レストラン等でキッチンマネージャーを歴任

1980年(昭和55年)
・32歳、米国オレゴン州にて有機農法を学ぶ
・米国オレゴン州ケーキデコレーションコンテスト1位入賞

1981年(昭和56年)
・33歳より、米国 L.C.E.S(International Cake Exploration Society)会員となる(1989年より1997年まで同会日本支部会長を務める)

1984年(昭和59年)
・36歳、アメリカ・カリフォルニアの大学でベーキング部長を勤め、ケータリング・パーティーコーディネート講師・食材開発指導を行う

1988年(昭和63年)
・ケーキデコレーター修士課程終了

1988年(昭和63年)
・ご主人・高井收氏が、国立大学 小樽商科大学の教授に就任するため帰国(2年遅れで、瑞枝先生も帰国)

1989年(平成元年)〜1997年(平成9年)
・米国 L.C.E.S(International Cake Exploration Society)日本支部会長を務める

1990年(平成2年)
・42歳、札幌市内で食に関する活動を開始
・日本での職探しは困難を極める。あるとき飲食関係の会社の人事部長から別室に呼ばれて言われたことが「採用する会社があなたのキャリアを活かすには、あなたを現場のトップに置かなければならない。しかし、今の日本の人事制度では難しい。あなたは、自分で仕事をするのが一番いいですよ」この言葉で、高井先生は自立の道を選択する
・料理講師、講演活動、食材・商品開発指導、食による地域開発指導等、様々な分野で勢力的に活動の場を広げて活躍中

1993年(平成5年)
・45歳、米国アイオワ州デモイン市・名誉市民となる

2003年(平成15年)
・55歳、私塾「たかい塾」を立ち上げる。農業改良普及指導員等の専門家育成を行う。今年11年目を迎える
・同年、北海道米販売拡大委員会「親子ごはん塾」の専任講師に就任。札幌の幼稚園数か所で「おにぎり指導」を毎年開催

2004年〜2009年(平成16年〜平成21年)
・拓殖短期大学新規就農サポートセンター理事就任

2010年(平成22年)
・62歳、北海道立北高等学校にて「高校生ごはん塾」の専任講師に就任
・農産物生産及び販売事業・合同会社 北の杜倶楽部(美瑛町)顧問、米生産及び販売事業ファーマーズ・クラブ 雪月花(妹背牛町)顧問に就任

2014年(平成26年)
・67歳、高井瑞枝先生率いる「第1回北海道フェア@沖縄」が開催される
・北海道より4事業者が参加

▶ 職業
 ・トータル・フードコーディネーター
 ・健康管理士一般指導員(登録番号:H23339)

▶ 現職
 ・北海道フードマイスター認定制度運営委員(副委員長)
 ・一般財団法人世界保健機関日本財団(WHO−JF)特別顧問
 ・社団法人日本冷凍食品協会 専任コンサルタント
 ・北海道中小企業総合支援センター 専任アドバイザー
 ・農産物生産及び販売事業「北の杜倶楽部」顧問
 ・米生産及び販売事業ファーマーズ・クラブ「雪月花」顧問

▶ 著書
 ・『グルメルシークッキング』(代三書館)1998年出版
 ・『食の架け橋〜 一人旅一食一会』(彩流社)2009年出版

▶ その他
 ・北海道放送(HBC)ラジオ「朝刊さくらい朝の三枚おろし・高井瑞枝の北海道は食の宝島」コメンテーター
  (木曜日担当)2006年4月より2014年3月まで

笑顔を絶やさない高井瑞枝先生

▶ 高井瑞枝先生が大切にしていること

▶ 高井先生が尊敬する3人の先生の教え

・ スパイスのアローラ先生(インド)

インドの現地で尊敬されていたアローラ先生から戴いたお言葉は「ミイロ、あなたは正しい知識を身に付ければ、世界中どこへいっても食の仕事ができますよ」。この後、高井先生は、米国アラスカ州のコミュニティ・カレッジでフードサービスのテクノロジーとマネージメントを習得。

・ 四川料理の宋先生(台湾)

四川料理を学ぼうと第一人者の横浜中華街の宋先生を訪ねたところ台湾に帰国するとのこと。そこで、高井先生は身一つで台湾を訪れ、頼み込んで宋先生の弟子入り。四川料理の奥深さを目の当たりにした高井先生は、自分はプロの料理人になることは無理であると悟る。そこで、自分ならではのスタイルで食に関わっていくことを決意。

・ ロバート・クラーク教授(アラスカ)

高井先生:「私が最も尊敬するロバート・クラーク先生は、物事のどこの切り口から入っていっても、必ず課題を解決できる素晴らしい先生です。ロバート・クラーク先生を超えることは到底できないと思っていました。
クラーク先生がお亡くなりになる5〜6年前、アメリカで言われた言葉が『ミイロ、君はぼくを超えたよ。僕の生徒の中で君が一番だよ』。私にとって最高の褒め言葉をいただきました。そして気が付くと、その頃から私は何も持たず、身体一つで仕事に行くようになっていました」

▶ 高井先生の人生における座右の書・レイチェル・カーソン著『沈黙の春』

高井先生が、食に関わって歩み続けた人生の中で指針としている本は、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』。
環境破壊に対して警鐘を鳴らした『沈黙の春』は1962年(昭和37年)に出版される。

レイチェル・カールソンは、出版2年後の1964年(昭和39年)4月14日、癌で逝去されました。
今年、没後50年記念の集いが、全国各地(京都・東京等)で開催され、彼女の偉大なる遺志は、50年後の今でも広く語り継がれています。

レイチェル・カーソンの魂とともに歩まれた高井先生の人生行路、高井先生が食に関わってきた50年のすべてが今に繋がり、人々の輪が大きく大きく広がっています。

ハイビスカス(うまんちゅ市場・グリーンハウス)

▶ 物を見極める力・嘘を見抜く力を養う

「すべてを鵜呑みにしないことです。物事は、自分の能力以上のことは理解できません。どれほど素晴らしいものを見ても、素晴らしいと感じる能力や知識が無ければ、理解することができません。本物を理解する能力は、自分で育てるしかありません。人の話を聞いて、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかを判別できる力を養うには、本物を自分の目で見て感じ取れるように感覚を育てることが大切です」と高井先生。

高井先生は、情報に対してあらゆるアンテナを立て、常に変化する世の中の流れをキャッチし、その流れに応じて行動されています。ピンと来た時は、すぐに自ら現場に足を運び、自らの目と感覚で確かめていらっしゃいます。

▶ 「命を戴く」食べものは、人と人を繋ぐ架け橋

世界中を歩きまわり、様々な人々と出会い様々な経験をしてきた高井先生。それは、嘘のない真実を見つめて歩み続けてきた高井先生ならではの人生です。本物を自分の目で見て体験し、自分自身の心と身体に染み込ませてきたからこそ、真実を見極めることができる高井先生。そこには「命を戴く」食べものが存在し、その命ある食べものを通しての様々な人々との素晴らしい出会いがあります。

「食に関わって50年。そのすべてが今に繋がっています」という高井先生のお言葉には、熱い魂の力強さが感じられます。

神秘的な出会いといえるような素敵な人々との交流が、高井先生の著書である『食の架け橋』(ひとり旅1食1会)に描かれています。こうして世界の数十か国を巡り、人一倍の努力と経験を経て、今や世界に通用する確固たる実力をもったトータル・フード・コーディネータとしてご活躍中です。

食べものは、人間の身体をつくり、生命を育んでいく根源的なもの。
人間にとって、食べものは命そのもの。
食あるところに人(生命)があり、そこに人と人との繋がりが生まれる。
命ある食べものこそが、人と人、心と心を繋ぐ架け橋なのです。

▶ 北海道と沖縄の架け橋

現在、北海道と沖縄の食の橋渡しで北と南を駆け巡り、ご活躍中。
この事業の一貫として、JAおきなわ・ファーマーズマケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)での高井瑞枝先生率いる「北海道フェア」が実現しました。

▶ 「美らキャロット」(糸満市喜屋武地区産)がご縁

高井先生は、11年程前の2003年(平成15年)頃、沖縄県粟国島の小渡幸信さんの「粟国の塩」に出会い、年に一度は沖縄を訪問。沖縄と接点を持ち始めていました。

その頃、高井先生が那覇市で開催された食のイベントに参加した際、勧められて試飲したのが、糸満市喜屋武(きゃん)地区の特産品・ニンジン「美ら(ちゅら)キャロット」。その極上の味わい深さに感激された高井先生。そこで、「美らキャロット」の産地普及活動で、自ら人参を売り歩いてた当時の糸満市役所農政課の金城盛憲 課長にコンタクトされます。
金城課長は「いつでも現場をご案内しますよ」と高井先生に告げました。

北海道に戻った高井先生はスケジュールを調整して糸満市へひとっ飛び。金城課長は「『いつでもどうぞ』と言ったものの、本当に来た人は高井先生が初めて!」とびっくり。金城課長に案内されてにんじん農園を訪問。地域に根ざした「美らキャロット」の様々な取り組みがスタートしました。

▶ 北海道の美味しい米を沖縄の人々に食べてもらいたい

高井先生が沖縄滞在中、沖縄で販売されていた「北海道産米」が、低品質の混合米であることに直面。「北海道の美味しい米を沖縄の人々にきちんと食べてもらいたい」そう痛感した高井先生は、とにかく沖縄の関係者に北海道の稲作を見てもらおうと思いました。それも、自費ではなく組織として決裁を経ての視察を希望しました。

その想いに応えた、JAおきななわ・ファーマーズマーケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)の浦崎進 店長(当時)は、稟議をきり北海道へ出張の許可を得て来道。高井先生は知人や関係者に頼み、JAきたそらち米貯蔵施設「深川マイナリー」、同北竜支所の大型石抜機や色彩選別機などでコンピューター処理された施設などの訪問先を調整。
高井先生は、浦崎店長を3日間案内されました。

その後、高井先生は何回も沖縄〜北海道間を行き来し、関係者間の様々な課題を克服・調整。「美味しい北海道米を沖縄の人々に食べてもらいたい」という高井先生の想いに賛同する多くの方々の努力により、3年の年月をかけて今回の沖縄での「北海道フェア」が実現しました。まさに、熱い想いと人々の繋がりが架け橋を作っていったのです。

こうした高井先生の活動は全て自費。
「北海道と沖縄の食の架け橋を作りたい」という、北海道人ならではの想いが根本的な原動力です。

◆ 北竜町ポータル・関連記事はこちら

第1部:高井瑞枝先生が架ける「北海道と沖縄・食の架け橋」北海道フェア(糸満市)(2014年12月10日)
第2部:北海道フェア@ファーマーズマーケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)(2014年12月10日)
第3部:北海道フェア交流会(糸満市)(2014年12月10日)

☆ noboru & ikuko

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