2010年10月11日(月)
私達は、今年の3月末、ここ北竜町に居を移しました。自然の素晴らしさ、清らかな美味しい水、町民の皆さんの温かな真心に触れ、感動の日々を過ごしています。
そして、何より「ひまわりライス」「ひまわりすいか」「ひまわりメロン」「ひまわりの花」「黒千石大豆」など、北竜町の肥沃な大地で命が芽生え、いのち(生命)が育み成長していく様子を6か月もの間、見ることができたのは幸せでした。そのひとつひとつが感動の連続です。
食べ物はいのち(生命)を探る
ここ北竜町では、そこに息づく様々ないのち(生命)が大切に守られ育まれている、力強いパワーを感じます。町民全体が手をつなぎ合い、協力しあう大きなエネルギーの源になっているように思います。
なぜ、この町に、このようなパワーが生みだされているのでしょうか? こうして、「いのち(生命)を守り育む魂のルーツ」を探す私達の旅は始まりました。
農協は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織
今回、北竜町農業協同組合8代組合長、及び前JAきたそらち(きたそらち農業協同組合)代表理事組合長・黄倉良二(おうくらりょうじ)さんのお話をお伺いする機会が、幸いにも与えられました。
お話をお伺いした場所は、JAきたそらち北竜支所事務所。事務所2階の階段を登った正面には「天と地と水 そして農民の心」と記される、北海道を代表する書道の大家でもある島田無響(しまだむきょう)氏の書。そこに描かれた文字に魂が存在するような躍動感を感じさせる素晴らしい書です。
北政清氏(初代組合長)、後藤三男八氏(5代組合長)、加地彦太郎氏の胸像。それら三氏の胸像は、農業の昭和史を飾るに相応しい先駆者たちの輝きを放っています。
黄倉さんは、1991年(平成3年)から農協代表理事組合長を3期9年間勤められました。毎朝、初代組合長・北政清氏を先頭に並べられた写真に手を合わせ、感謝しあいさつすることから、組合長の一日がはじまります。
組合長でありながら「良ちゃん」と呼ばれ親しまれた黄倉組合長。農作業の迷惑にならないようにと、早朝5時前から農家を回り、組合員に声をかけ、耳を傾ける毎日でした。
まず「組織、団体を理解する上で大切なことは、社訓、組織訓を知ることである」と力強く、黄倉さんは語られました。
「農協訓は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育むことです。農協は、先人が脈々と築き上げてきたものを受け継ぎ、この4つのことに取り組み、ずっと守り続けてきました。
人間にとって一番大切なものは、いのち(生命)。
いのち(生命)は食べもので育まれます。食べものは、ものであってはいけない。食べものは、いのち(生命)なのです。どんなに背景が変化しようと守り抜いてきたもの。
そして、先人が厳冬に耐え開墾し、耕し、守り抜いてきた大地。さらに、地域社会の環境を守っているもの、それは水。
木が朽ちて、葉が落ち、岩や土の肥やしとなる。暑寒別連峰に降り積もった雪が、ひと雫ひと雫流れ込んでできる、生きたミネラルを含んだ水。その水が、岩や土を通ってダムに流れ込み、田んぼを潤す。その素晴らしい水がこの町には存在します。
土を汚染させ、劣化させては、いい食べものはつくれない。工場もスキー場もゴルフ場もないこの土地で、先人たちは親子伝来、いい土・いい水を、子孫に残す為守り抜いてきたのです。
110年以上、農業を営む先人たちが、築き上げ守り続けてきたこの偉業を、次の世代へと伝えていくことが、私達の役目です」
貧困を支えた町の人々の温かい思いやり
黄倉良二さんは、1939年(昭和14年)6月1日生まれ。数えで72才です。
中学生時代から農業の手伝いをし、11人家族で過ごした青年時代。3つ上のお兄様は、札幌へ大工・建築の奉公。病弱なお母様を抱え、農協からの大きな借金を背負いながらの、農業一筋の壮絶な農家の暮らし。そこには、町の人々の温かい思いやりがありました。
当時の農業は、馬そりの時代。冬の間、馬にとって、脚気にならないための大切な食べ物が燕麦(えんばく)。「燕麦3俵買ってこい」と父親に言付かり、お金を持たずに農協へ向かう中学生の良ちゃん。農協職員は荷車に燕麦を積んでくれたものの、現金を持っていないことを知ると、荷車の燕麦を下して「お金がないなら売れないよ」。馬に燕麦を食べさせないと、馬は脚気になって、春からの農業ができなくなってしまう。
隣に住み、そんな様子を見守っていた、正当派の馬喰(ばくろう)さんの杉本清松さんが、石灰(カーバイト)の一斗缶(18リットル缶)を持ってきてくれました。
納屋で、ドラム缶2こほどが埋められる大きさの穴を掘り、藁を詰めて、よく足で踏む。その藁を、カーバイトを溶かしたお湯で浸し、丸一日置いてから馬に食べさせるのです。
こうして作る石灰藁を馬に食べさせると、太らないし、脚気にもならない。馬喰ならではの優れた技。馬喰さんとは、馬の力を最大限に発揮できる人、馬の病を治せる人。この馬喰さんのお陰で、馬に力が与えられ、春には田んぼを耕すことができました。
また、近所に住んでいた盲目のおばあちゃん。このおばあちゃんは、家にいながら、道行く人の足音だけで誰だか解ります。
ある日、おばあちゃんが「良ちゃん、良ちゃん、ちょっとよってけ」と声をかけてくださいました。行ってみるとそこには、当時食べたことのない、お砂糖がまぶされたきな粉餅。遠慮しながら食べると「良ちゃん、うまいか。食べてけ。遠慮せんで、いっぱい食べてや」。。。
生涯忘れる事のできない、おばあちゃんの温かい言葉と甘いきな粉餅の美味しさが、貧しい生活の苦しさを乗り越えていくことのできる大きな力となりました。
青年時代は、毎日、朝は5時から夜8時まで農作業。その後、走ることが好きな仲間とともに、真っ暗な砂利道10kmをマラソンをして過ごしました。
25歳(1964年・昭和39年)から49歳(1988年・昭和63年)までの24年間、深川地区消防組合北竜消防団第一分団に所属。北竜町体育指導員としてスポーツの指導に貢献。1967年に、町は道内二番目の「スポーツの町」宣言をし、また、自ら「北空知駅伝大会」に連続40回出場。この記録は、黄倉さんお一人が保持していらっしゃいます。
青年時代の苦しい生活を見守り、走ることを応援してくださった北竜高校時代の上田孝先生のお言葉。
「良ちゃんは、貧しいけれど、食べものがあるでしょう。都会では、赤貧の生活で、食べものがなくて苦労している若い人がいっぱいいるよ」
この先生のお言葉は、農業の苦しい生活のなかで、一筋の光となりました。
農業とは、安全な食べものを生産すること ―食べものはいのち(生命)―
農協活動は1965年(昭和40年)から北竜町農協青年部理事、監事、副部長、部長と就任し積極的な青年部活動を展開していきました。
1973年(昭和48年)、34歳で農協理事に就任して以来、2000年(平成12年)2月の広域合併に至るまでの27年間、北竜町農協の仕事に心血を注ぐ人生を過ごされたのです。
黄倉さんは、偉大な人々との出会いによって、農業に対する想いを確立されていきました。当時、北海道の自然農法の先達・佐藤晃明さんの田んぼ(当別町)に勉強に行ったとき、畦を歩きながら問われた御言葉です。
「黄倉さん、農業って何だかわかりますか?」
中学生のときから20年間、ただひたすら一生懸命、借金を返すためにやってきた農業を、言葉に表すことができず、答えることができなかった黄倉さん。
「農業って、安全な食べものを生産することなんですよ」
佐藤晃明さんのこの言葉は、黄倉さんにとって、青天霹靂であり、農業に対する考え方を根本から変えました。
さらに、黄倉良二さんの人生に大きな影響を与えた人物である、5代目組合長・後藤三男八(ごうとうみおはち)氏。1955年(昭和30年)から、6期18年間、組合長を務められました。
後藤三男八さんが退任される前年の1972年(昭和47年)11月2日。当時34歳の黄倉さんは、農協の理事に推されていました。後藤さんから、部屋に呼ばれて、伝えられたことは、
「私は来年辞める。まだ若いおまえは、農協理事の器とはいえない。不満だが、なることに反対はしない。後を頼む。ただし、言っておく事がある。」
「お金が貯まったら、まず本を買え」
「これからの時代、やがて食べ物がなくなる。そのことを考えて、自らの農業で実践し、農協の事業計画を作れ」
「『地位と名誉と金』を求めるな。農協の役員をやっていると、やがてこのことに遭遇する時が訪れる。その時に毅然と対処できるようにしておけ」
「自分に対する世の中の評価は、組合長を辞めてから10年後に表れる。農協とは、役員のものではない、職員のものでもない、それは組合員のものである。必ずそこに立ち返れ。何か問題が起きて迷った時、どうすることが組合員の為になるかを考えよ。そこで出た答えに従え」
まさに、こうした後藤三男八さんの想いが、黄倉さんのその後の人生を方向づける礎となりました。
組合員のための農協
黄倉さんは、1973年(昭和48年)、後藤亨氏(後藤三男八氏御子息)とともに「自然農法米(化学肥料や農業防除をしない米づくり)」に取り組み始めます。
この米づくりは、公害問題が厳しくなってきた15年後の1988年(昭和63年)6月に開催された農民集会で、農協青年部の「国民の命と健康を守る食糧生産」の宣言として認められ、北竜町に着実に浸透していきました。こうして、町をあげての安全・安心な食糧生産であるクリーン農業への取り組みがスタートしていったのです。
1993年(平成5年)戦後最悪の大冷害。1995年(平成7年)食糧管理法が53年ぶりに廃止。水田面積増加、栽培技術の向上による米出荷量の増加等に合わせ、保管米の良質な味を維持するための農業倉庫の新築が求められるようになりました。
将来に向けての農協広域合併をも考慮に入れ、米を保管・管理する低温倉庫建設への取り組みもすすめられていきました。一番の課題は、合併までに米が15万俵入る低温倉庫2棟の建設でした。
当時、農協の資金繰りは苦しく、倉庫建設のために、組合員にさらなる負担を強いることはできません。「しかし、どうしても合併に向けて、低温倉庫の建築は必要である」と黄倉組合長は悩みました。
そこで、建設費を今までの半額にする方針で、従来とは異なる方法で、競争入札を実施したのです。半額で落札できる訳がない、などの非難を受けながら、最終的に、いままでの半分近い建設費用で、低温倉庫を建設することができました。組合員のために何ができるか、その想いが建設を可能にしたといえます。
また、農協職員の意識改革にも取り組みました。当時の農協の貯貸率(※)は高く、組合員からの返済利息が、収入の一定部分を構成していました。(※ ちょたいりつ:貯金残高に対する貸出金の割合を表した数値のこと)
黄倉組合長は、職員に「皆さんの給料の原資は、組合員の利息で成り立っているという現状を認識してください」と説いたのです。「食べものはいのち(生命)」「農協とは『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織」、そして「農協は、組合員のためにある」ことを毎日繰り返し、職員に伝え続けました。さらに、貯貸率60%を目指して、事業利益が上がる組織形態・事業に取り組んだのです。
2000年(平成12年)、北竜町農協は、8つの農業協同組合の広域合併によって、北竜町農業協同組合から、きたそらち農業協同組合(JAきたそらち)北竜支所へと変わりました。対等合併でした。
黄倉さんは、合併時にJAきたそらち代表理事専務に就任。2002年(平成14年)から2007年まで、代表理事組合長に就任されました。
低農薬栽培に全町挙げて取り組む。―日本初「生産情報表示農産物JAS規格」をお米で取得―
1997年(平成9年)に、有機JAS法の有機農産物及び特別栽培農産物に関わる表示ガイドラインに「麦」「米」が追加されました。こうした時代の変化に合わせ、北竜町全戸による、低農薬栽培米への取り組みも大きく進歩していきました。
2005年(平成17年)6月、生産情報表示JAS規格が、すべての農産物に適用拡大されました。
北竜町は、全町あげて栽培協定を策定。これに基づき、ひまわりライス生産組合では使用農薬を統一し、低農薬栽培(※)への取り組みを開始。(※ 慣行栽培基準の5割減:北海道の農家が使用している農薬成分の平均22成分を11成分に半減)
さらに、2007年(平成19年)に、トレーサビリティー(生産・流通履歴を追跡する仕組み)を認証する「生産情報公表農産物JAS規格」を取得し、WEB上での情報公開を開始しました。
米の栽培で、200戸近い農家が所属する生産組合が「生産情報公表農産物JAS規格」を取得したのは、日本で初めてのことです。また、現時点でも同条件で取得している組織は、北竜町ひまわり生産組合、唯ひとつです。
北竜町では、生産者のひとりひとりが「食べものはいのち(生命)」の心を、消費者へ伝える農業がずっと続けられています。これは、たくさんの先人方の魂が、今に伝えられ、守られているからこそ成し得ることだと感じます。
百姓をしてきて、本当によかった
現在、黄倉良二さんは「北海道の有機農業をすすめる会(麻田信/二代表)」の顧問を勤められています。「食べものはいのち(生命)」の魂を伝えるために、自ら農業を続けながら、日本中を駆け巡っていらっしゃいます。
「日本の農業は、水を守り、誇りうる土を伝承しながら安心・安全なたべものをつくっていく。いのち(生命)を守り、世代を超えて農民の魂を磨き、伝えていく。いままでずっとやってきた農業。そしてこれからもやり続ける農業。
この農業を続けられるのは、妻がいつも一緒にやってきてくれたお陰です。そして、今は、息子夫婦が有機農業をやり続けています。ありがたいことです。
百姓をしてきて、本当によかった。いのちを守っていける農業ほど幸せな仕事はないよね」
菩薩様のように穏やかな笑顔で語る黄倉良二さんは、高貴な光で輝いていました。
「天と地と水 そして農民の心」
天の恵み、誇れる大地、清らかな水、
いのちを育み、守り続ける農民の魂。。。
生命あるすべてのものが、
結びつきひとつとなって繋がっていくことのできる幸せに
無償の愛と感謝と笑顔をこめて。。。
☆ noboru & ikuko