高井瑞枝先生「北海道と沖縄・人と食の橋」(札幌市在住)

2014年12月10日(水)

11月8日(土)、9日(日)の2日間、沖縄県糸満市「ファーマーズマーケットいとまん うまんちゅ市場」にて、高井瑞枝先生(67歳)率いる「北海道フェア」が開催されました。

北海道からの参加は、ファーマーズ・クラブ雪月花(妹背牛町)、合同会社 北の杜倶楽部(旭川市)、有限会社 丸二永光水産(枝幸町)、そしてJAきたそらち(深川市)・北竜支所(北竜町)の皆さんです。

北海道の新米(ゆめぴりか、ななつぼし)、北海道の豆類(金時、黒豆、黒千石等)、北海道野菜(じゃがいも、かぼちゃ等)、オホーツク海の魚貝類など北海道の特産品が並びました。

「北海道フェア」開催に先立つ10月23日(火)、お忙しいところ高井先生に「北海道と沖縄の橋渡し」に関するお話を伺いました。

大会瑞枝先生

▶トータルフード・コーディネーター 髙井瑞枝先生(食・工房ミイロ 代表)

高井先生は5歳の時から食に関わり、18歳からリュックを背負い単身で海外へ渡航、食に関する本格的な学びを開始。生産現場に出かけ、畑の土を読み、動物の解体を学び、各国のお料理やケーキづくりなどを習得。世界各国で、料理指導や食品加工指導など食に関するあらゆる仕事をする中で、様々な場所で沢山の人々との感動的な出会いに導かれています。

▶ 食に関わってきた50年

1947年(昭和22年)
・6月30日北海道音更町生まれ、枝幸町育ち
・獣医(大動物の臨床医)のお父様の教えである「命を戴く食べもの」という考えが、高井先生の「食に関わる人生の原点」となる

1965年(昭和40年)
・高校卒業後食を学ぶために、18歳で40kgもの生活必需品を詰めたリュックを背負い単身で沖縄に渡り、そこから世界中を旅する。旅先で出会う人々から「ミイロ」という愛称で呼ばれ多くの人々に愛される
・英語を覚えようと、汽車から降りては野原に寝っ転がって辞書の単語を暗記。「覚えた単語は絶対に忘れない」との覚悟で暗記したページを破っては捨てていった
・訪問先については、事前に十分に調査。現地に到着後、おかしいと感じたら近づかず危険を回避。身についたものこそが自己の財産となることを体感する

1972年(昭和47年)
・24歳のとき北インドにて、スパイス作りについて土作りから作付け・収穫・加工・ブレンドなどを学ぶ。その後、日本料理・四川料理・インド料理を数か国で学び、ギリシャでは大動物の屠殺・解体を習得

1977年(昭和52年)
・29歳、食についてさらに学ぶために、米国アラスカ州のコミュニティ・カレッジに入学。フードサービスのテクノロジーとマネージメントを学ぶ。土壌学、建築学、心理学など総合的に幅広い分野を修学
・心理学の授業では、その内容が複雑で、「私は食に関することを学びたいのに・・・」と考えていた。しかし、「人の居ない所には、食はないんだよ」という心理学の先生のお言葉に衝撃を受け、「人間の心と食べものは一体となっている」ことを痛感。食べものは、身体を形成するだけでなく、人間の心に大きな影響を与えていることを学ぶ
・「食べものは、太陽・土・水などの自然環境の中、作る人・食べる人など多くの人々よって育まれ、支えられているもの。あらゆる食べものに対する深い愛情と思いやりが大切です」と高井先生

1978年(昭和53年)
・30歳、結婚。アラスカで出会った高井收さん(現・小樽商科大学名誉教授)と8回目のデートで結婚

1979年(昭和54年)
・31歳、ホテル、レストラン等でキッチンマネージャーを歴任

1980年(昭和55年)
・32歳、米国オレゴン州にて有機農法を学ぶ
・米国オレゴン州ケーキデコレーションコンテスト1位入賞

1981年(昭和56年)
・33歳より、米国 L.C.E.S(International Cake Exploration Society)会員となる(1989年より1997年まで同会日本支部会長を務める)

1984年(昭和59年)
・36歳、アメリカ・カリフォルニアの大学でベーキング部長を勤め、ケータリング・パーティーコーディネート講師・食材開発指導を行う

1988年(昭和63年)
・ケーキデコレーター修士課程終了

1988年(昭和63年)
・ご主人・高井收氏が、国立大学 小樽商科大学の教授に就任するため帰国(2年遅れで、瑞枝先生も帰国)

1989年(平成元年)〜1997年(平成9年)
・米国 L.C.E.S(International Cake Exploration Society)日本支部会長を務める

1990年(平成2年)
・42歳、札幌市内で食に関する活動を開始
・日本での職探しは困難を極める。あるとき飲食関係の会社の人事部長から別室に呼ばれて言われたことが「採用する会社があなたのキャリアを活かすには、あなたを現場のトップに置かなければならない。しかし、今の日本の人事制度では難しい。あなたは、自分で仕事をするのが一番いいですよ」この言葉で、高井先生は自立の道を選択する
・料理講師、講演活動、食材・商品開発指導、食による地域開発指導等、様々な分野で勢力的に活動の場を広げて活躍中

1993年(平成5年)
・45歳、米国アイオワ州デモイン市・名誉市民となる

2003年(平成15年)
・55歳、私塾「たかい塾」を立ち上げる。農業改良普及指導員等の専門家育成を行う。今年11年目を迎える
・同年、北海道米販売拡大委員会「親子ごはん塾」の専任講師に就任。札幌の幼稚園数か所で「おにぎり指導」を毎年開催

2004年〜2009年(平成16年〜平成21年)
・拓殖短期大学新規就農サポートセンター理事就任

2010年(平成22年)
・62歳、北海道立北高等学校にて「高校生ごはん塾」の専任講師に就任
・農産物生産及び販売事業・合同会社 北の杜倶楽部(美瑛町)顧問、米生産及び販売事業ファーマーズ・クラブ 雪月花(妹背牛町)顧問に就任

2014年(平成26年)
・67歳、高井瑞枝先生率いる「第1回北海道フェア@沖縄」が開催される
・北海道より4事業者が参加

▶ 職業
 ・トータル・フードコーディネーター
 ・健康管理士一般指導員(登録番号:H23339)

▶ 現職
 ・北海道フードマイスター認定制度運営委員(副委員長)
 ・一般財団法人世界保健機関日本財団(WHO−JF)特別顧問
 ・社団法人日本冷凍食品協会 専任コンサルタント
 ・北海道中小企業総合支援センター 専任アドバイザー
 ・農産物生産及び販売事業「北の杜倶楽部」顧問
 ・米生産及び販売事業ファーマーズ・クラブ「雪月花」顧問

▶ 著書
 ・『グルメルシークッキング』(代三書館)1998年出版
 ・『食の架け橋〜 一人旅一食一会』(彩流社)2009年出版

▶ その他
 ・北海道放送(HBC)ラジオ「朝刊さくらい朝の三枚おろし・高井瑞枝の北海道は食の宝島」コメンテーター
  (木曜日担当)2006年4月より2014年3月まで

笑顔を絶やさない高井瑞枝先生

▶ 高井瑞枝先生が大切にしていること

▶ 高井先生が尊敬する3人の先生の教え

・ スパイスのアローラ先生(インド)

インドの現地で尊敬されていたアローラ先生から戴いたお言葉は「ミイロ、あなたは正しい知識を身に付ければ、世界中どこへいっても食の仕事ができますよ」。この後、高井先生は、米国アラスカ州のコミュニティ・カレッジでフードサービスのテクノロジーとマネージメントを習得。

・ 四川料理の宋先生(台湾)

四川料理を学ぼうと第一人者の横浜中華街の宋先生を訪ねたところ台湾に帰国するとのこと。そこで、高井先生は身一つで台湾を訪れ、頼み込んで宋先生の弟子入り。四川料理の奥深さを目の当たりにした高井先生は、自分はプロの料理人になることは無理であると悟る。そこで、自分ならではのスタイルで食に関わっていくことを決意。

・ ロバート・クラーク教授(アラスカ)

高井先生:「私が最も尊敬するロバート・クラーク先生は、物事のどこの切り口から入っていっても、必ず課題を解決できる素晴らしい先生です。ロバート・クラーク先生を超えることは到底できないと思っていました。
クラーク先生がお亡くなりになる5〜6年前、アメリカで言われた言葉が『ミイロ、君はぼくを超えたよ。僕の生徒の中で君が一番だよ』。私にとって最高の褒め言葉をいただきました。そして気が付くと、その頃から私は何も持たず、身体一つで仕事に行くようになっていました」

▶ 高井先生の人生における座右の書・レイチェル・カーソン著『沈黙の春』

高井先生が、食に関わって歩み続けた人生の中で指針としている本は、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』。
環境破壊に対して警鐘を鳴らした『沈黙の春』は1962年(昭和37年)に出版される。

レイチェル・カールソンは、出版2年後の1964年(昭和39年)4月14日、癌で逝去されました。
今年、没後50年記念の集いが、全国各地(京都・東京等)で開催され、彼女の偉大なる遺志は、50年後の今でも広く語り継がれています。

レイチェル・カーソンの魂とともに歩まれた高井先生の人生行路、高井先生が食に関わってきた50年のすべてが今に繋がり、人々の輪が大きく大きく広がっています。

ハイビスカス(うまんちゅ市場・グリーンハウス)

▶ 物を見極める力・嘘を見抜く力を養う

「すべてを鵜呑みにしないことです。物事は、自分の能力以上のことは理解できません。どれほど素晴らしいものを見ても、素晴らしいと感じる能力や知識が無ければ、理解することができません。本物を理解する能力は、自分で育てるしかありません。人の話を聞いて、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかを判別できる力を養うには、本物を自分の目で見て感じ取れるように感覚を育てることが大切です」と高井先生。

高井先生は、情報に対してあらゆるアンテナを立て、常に変化する世の中の流れをキャッチし、その流れに応じて行動されています。ピンと来た時は、すぐに自ら現場に足を運び、自らの目と感覚で確かめていらっしゃいます。

▶ 「命を戴く」食べものは、人と人を繋ぐ架け橋

世界中を歩きまわり、様々な人々と出会い様々な経験をしてきた高井先生。それは、嘘のない真実を見つめて歩み続けてきた高井先生ならではの人生です。本物を自分の目で見て体験し、自分自身の心と身体に染み込ませてきたからこそ、真実を見極めることができる高井先生。そこには「命を戴く」食べものが存在し、その命ある食べものを通しての様々な人々との素晴らしい出会いがあります。

「食に関わって50年。そのすべてが今に繋がっています」という高井先生のお言葉には、熱い魂の力強さが感じられます。

神秘的な出会いといえるような素敵な人々との交流が、高井先生の著書である『食の架け橋』(ひとり旅1食1会)に描かれています。こうして世界の数十か国を巡り、人一倍の努力と経験を経て、今や世界に通用する確固たる実力をもったトータル・フード・コーディネータとしてご活躍中です。

食べものは、人間の身体をつくり、生命を育んでいく根源的なもの。
人間にとって、食べものは命そのもの。
食あるところに人(生命)があり、そこに人と人との繋がりが生まれる。
命ある食べものこそが、人と人、心と心を繋ぐ架け橋なのです。

▶ 北海道と沖縄の架け橋

現在、北海道と沖縄の食の橋渡しで北と南を駆け巡り、ご活躍中。
この事業の一貫として、JAおきなわ・ファーマーズマケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)での高井瑞枝先生率いる「北海道フェア」が実現しました。

▶ 「美らキャロット」(糸満市喜屋武地区産)がご縁

高井先生は、11年程前の2003年(平成15年)頃、沖縄県粟国島の小渡幸信さんの「粟国の塩」に出会い、年に一度は沖縄を訪問。沖縄と接点を持ち始めていました。

その頃、高井先生が那覇市で開催された食のイベントに参加した際、勧められて試飲したのが、糸満市喜屋武(きゃん)地区の特産品・ニンジン「美ら(ちゅら)キャロット」。その極上の味わい深さに感激された高井先生。そこで、「美らキャロット」の産地普及活動で、自ら人参を売り歩いてた当時の糸満市役所農政課の金城盛憲 課長にコンタクトされます。
金城課長は「いつでも現場をご案内しますよ」と高井先生に告げました。

北海道に戻った高井先生はスケジュールを調整して糸満市へひとっ飛び。金城課長は「『いつでもどうぞ』と言ったものの、本当に来た人は高井先生が初めて!」とびっくり。金城課長に案内されてにんじん農園を訪問。地域に根ざした「美らキャロット」の様々な取り組みがスタートしました。

▶ 北海道の美味しい米を沖縄の人々に食べてもらいたい

高井先生が沖縄滞在中、沖縄で販売されていた「北海道産米」が、低品質の混合米であることに直面。「北海道の美味しい米を沖縄の人々にきちんと食べてもらいたい」そう痛感した高井先生は、とにかく沖縄の関係者に北海道の稲作を見てもらおうと思いました。それも、自費ではなく組織として決裁を経ての視察を希望しました。

その想いに応えた、JAおきななわ・ファーマーズマーケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)の浦崎進 店長(当時)は、稟議をきり北海道へ出張の許可を得て来道。高井先生は知人や関係者に頼み、JAきたそらち米貯蔵施設「深川マイナリー」、同北竜支所の大型石抜機や色彩選別機などでコンピューター処理された施設などの訪問先を調整。
高井先生は、浦崎店長を3日間案内されました。

その後、高井先生は何回も沖縄〜北海道間を行き来し、関係者間の様々な課題を克服・調整。「美味しい北海道米を沖縄の人々に食べてもらいたい」という高井先生の想いに賛同する多くの方々の努力により、3年の年月をかけて今回の沖縄での「北海道フェア」が実現しました。まさに、熱い想いと人々の繋がりが架け橋を作っていったのです。

こうした高井先生の活動は全て自費。
「北海道と沖縄の食の架け橋を作りたい」という、北海道人ならではの想いが根本的な原動力です。

◆ 北竜町ポータル・関連記事はこちら

第1部:高井瑞枝先生が架ける「北海道と沖縄・食の架け橋」北海道フェア(糸満市)(2014年12月10日)
第2部:北海道フェア@ファーマーズマーケットいとまん・うまんちゅ市場(糸満市)(2014年12月10日)
第3部:北海道フェア交流会(糸満市)(2014年12月10日)

☆ noboru & ikuko

短角王国 高橋ファーム「ファームイン守人(まぶりっと)」(えりも町)

2014年12月9日(火)

襟裳岬まで車で5分(約2.5km)、岬のほぼ突端に位置する、
短角王国 高橋ファーム「ファームイン守人(まぶりっと)」。

ファームイン守人(まぶりっと)
ファームイン守人(まぶりっと)(右)& 焼肉小屋・短々(たんたん)(左)

南に襟裳の海を望み、東に日高山脈がそびえ立つ丘陵地。
100haもの広大な牧草地で、70頭もの親子の「えりも短角牛」が春から初冬にかけて自然放牧されています。

短角王国 高橋ファーム(えりも町)
短角王国 高橋ファーム(えりも町)

その牧場に立つ一軒家「ファームイン守人(まぶりっと)」は、2~8名のグループで利用できる宿泊施設。

1階がリビング、ダイニング、トイレ、バスルーム、2階の和室2部屋が宿泊スペースとなっています。

1階リビングルーム
1階リビングルーム
2階和室2部屋
2階和室2部屋

建物の前の草原には、なんとも元気のいいヤギさん2匹(オス&メス)!!
逞しいオスのヤギさんが、杭に頭突きをして遊んで(運動?)いました。

逞しいヤギさん(オス)
逞しいヤギさん(オス)

レストランの営業は、09:00~17:00。
17:00以降は予約制(冬季も営業しています)

ステーキセット、ハンバーグセット、牛丼、スープカレー、バーガーセットなど、いろいろ楽しめます(その他、ドリンク、ソフトクリーム等)。

守人のお食事メニュー
守人のお食事メニュー

夕食は、別棟の焼肉小屋「短々(たんたん)」で、高橋オーナーが自ら焼く「えりも短角牛」の焼き肉を思う存分堪能!

焼肉小屋「たんたん」
焼肉小屋「たんたん」

夏季の晴れた日の朝食は、コンブ漁をする海岸まで車で移動し、襟裳の海に広がる円弧を描く水平線を前に、海の幸を味わいます。

コンブ漁をする海岸
コンブ漁をする海岸

高橋ファームの天真爛漫な牛さんたち

宿名「ファームイン守人(まぶりっと)」の「守人」とは、放牧中の牛を管理する人という東北弁。

そして、遠野文化の伝統を守る人も「まぶりっと」と呼ばれているそうです。

短角王国まぶりっと
短角王国まぶりっと

短角王国の守人が、ファーム4代目の高橋祐之さん(56歳)。

優しい笑顔の高橋祐之さん
優しい笑顔の高橋祐之さん

高橋さんは牧場を経営しながら昆布漁をする半農半漁を営んでいらっしゃいます。

夏の朝は5時、海へ船をだし、昆布の引き上げ操業を行います。浜では、砂利を敷き詰めた干場で、家族総出の手作業による天日干し作業が続きます。

そのえりもの海を南に望みながら雄大に広がる牧場では、希少品種である「短角牛」が自然放牧でのびのびと育てられています。

広大な牧場でのびのびと育つ「えりも短角牛」
広大な牧場でのびのびと育つ「えりも短角牛」

自営の敷地と借りている町営放牧場を合わせて180haもの牧場では、牛たちが草を食べつくすと次の放牧地へと場所を移動する放牧が行われています。

「こぉ〜〜い来い来い来い!」という高橋さんの言葉が牧笛となって牛たちを誘導します。

「牛たちは、次の移動場所わかっているかのように、私達の動きを察っして、しっかりとついてきますよ」と高橋さん。

牛たちを見守る高橋さん
牛たちを見守る高橋さん

潮風が運ぶミネラルたっぷりの牧草をパクパク食べて、
起伏の激しい牧場内を自由奔放に走り回って育つ牛さんたち。

逞しくて野生のような牛さんは、筋肉隆々。
艶々のブラウンヘヤーが馬のように綺麗でスマート。

まん丸くて大きな目が、無邪気で無性に愛らしい。
すべての牛さんに名前と番号がつけられています。

艶々の毛並みで愛くるしい牛さん
艶々の毛並みで愛くるしい牛さん

2月から4月に牛舎で自然分娩で生まれた仔牛は、お母さん牛とずっと一緒。母乳をいっぱい飲んで育つ甘えん坊の仔牛さんたちは、雪が溶け、草が生え始めた5月には放牧地へ。

栄養たっぷりの牧草を好きなだけ食べて、太陽の光を浴び、
27か月かけて元気に成長していきます。

「ぼくぁ~しあわせだなぁ~♡」
とつぶやく牛さんたちの声が、風に乗って聞こえてくるようです。

成長してある程度の体格になると、牛舎へ移動。
遺伝子組み替えをしていない穀物飼料(トウモロコシやふすま等)と自家製の牧草が与えられ、体重およそ600kg~700kgくらいまで成長します。

牛舎
牛舎
牛舎の牛たち
「あなた達はだ〜れ?」と見つめる牛たち

えりもの緑化に挑み続けた、半世紀に渡る熱い魂

短角牛は、旧南部藩(岩手県)時代に、
内陸と沿岸の物資輸送に使われていた南部牛に由来する牛。

1895年(明治28年)、
えりも町に導入された短角牛は、漁業の不漁対策として、
えりも町で生きる人々の厳しい生活を支えました。

1870年代(明治初期)、
襟裳岬周辺に開拓団が入り、海岸林が燃料林利用のための伐採が進みました。

1920年代(昭和初期)、
「襟裳砂漠」と呼ばれた程、草一本はえない砂漠化状態。
風に吹き飛ばされた赤土が沿岸一面覆い、襟裳岬の海は赤い海と化しました。
昆布は根腐れを起こし、漁業に大きな打撃を与えました。

1950年(昭和25年)、
若い漁師達50家族が緑化に立ち上がります。
一致団結して挑んだ、えりも緑化事業の壮絶なる戦いは、以後半世紀に及びました。その後、国の治山事業の取り組みが開始され、少しずつ緑を取り戻していきました。

1984年(昭和59年)、
数十年ぶりに襟裳岬に「流氷」が押し寄せ、海岸沿いの赤砂を根こそぎ洗い流しました。翌年、良質のコンブが大量に採れるという、奇跡の復活がくりひろげられました。

襟裳岬周辺の陸域にはクロマツの緑が広がり、そして、かつての豊かな広葉樹の原生林を目指して、広葉樹の植林も進められています。

緑が広がる襟裳岬
緑が広がる襟裳岬(中央の家が「ファームイン守人」)

守りぬいていく「えりも短角牛」への熱い想い

こうした襟裳岬の深い歴史を背景に、代々受け継がれてきた半農半漁の生活をしっかりと守り続けていらっしゃる高橋さんご夫婦。これまでのご努力とご苦労は並大抵のものではなかったと思います。

そして世の中は、輸入自由化へと進み、海外から安価な牛肉が国内に流通。
さらに、霜降りの柔らかい牛肉が求められるようになってきました。

えりも町でも短角牛から霜降りの黒毛和牛に転換する畜産農家が増加。
しかし、高橋さんは襟裳の自然の中で育ち、地域に根付いている短角牛の育成を守り抜いていくことを決意されました。

高橋ファームの活動

高橋さんは、BSE(牛海綿状脳症)問題の発生の年、安全で美味しい短角牛の素晴らしさを、より多くの人々に知ってもらおうと思い立ちます。

奥様・秀子さんと力を合わせ、2002年(平成14年)にファームイン「守人まぶりっと」、2003年(平成15年)に焼き肉小屋「短々(たんたん)」をオープン。

宿泊、牛肉販売、レストランを営業。
牛肉の精肉や加工品の販売は、独自に販売ルートを開拓し直接地方へ発送。

その他の農業実習体験として、農業高校や農業実習生の受け入れを行い、餌やり体験・牛舎の掃除体験・放牧の見学など、積極的に活動されています。

高橋さんは、子どもたちに「命をいただく」ことの大切さ、
感謝の心を伝えていらっしゃいます。

数々の受賞

高橋ご夫妻の地道な活動が高く評価され、

・わが町は美しくー北海道・地域特産物部門金賞(2011年2月16日)
・第8回コープさっぽろ農業賞・北海道知事賞(2011年11月11日)
・第3回北海道肉専用種枝共励会・最優秀賞(日本短角種の部)
 (2013年11月7日)

など様々な賞を受賞されていらっしゃいます。

わが町は美しくー北海道・地域特産物部門金賞受賞
わが町は美しくー北海道・地域特産物部門金賞(2011年2月16日)
第8回コープさっぽろ農業賞・北海道知事賞受賞
第8回コープさっぽろ農業賞・北海道知事賞(2011年11月11日)賞
第3回北海道肉専用種枝共励会・最優秀賞(日本短角種の部)受賞
第3回北海道肉専用種枝共励会・最優秀賞(日本短角種の部)(2013年11月7日)

焼肉小屋で味わう極上肉「えりも短角牛」

「えりも短角牛」は、低脂肪で良質の赤身肉が特徴。肉の旨味成分であるグルタミン酸などが多く、牛肉本来の美味しさが味わえます。

待ちに待った夕食は、バーベキューハウスへ。牧場主高橋祐之さんが、自ら焼いて、最高の状態で最高級の「えりも短角牛」を提供!!!

カルビ、サガリ、タン、ハツ、ミノ、レバー、ホルモン、昆布入ハンバーグ、ウインナー、すべて味付けは、塩&コショウのみ!

こだわりのハンバーグは、低温殺菌の牛乳、放し飼いの自然卵、道産の無・低農薬のたまねぎ、天然酵母のパン粉、国産無・低農薬のトマトで作ったケチャップ入り。

えりも短角牛づくし
えりも短角牛づくし

噛めば噛むほど、牛肉独特の旨味がジュワーッと広がります。
サガリの脂がなんとも甘~い!

すっきりとした旨味に誘われ、次から次へと食べても食べても、
お腹の中へ入ってしまいます。美味しいごはんと野菜もセットされています。

「モォ~~~モォ~~~、美味しくてたまりませ~~~ん」
牛になってしまった気分です ♬

ホントに、ホントに ごちそうさまでした!!!

ウインナー & カルビ
ウインナー & カルビ
柔らか〜いホルモン
>柔らか〜いホルモン
カルビ
カルビ
コンブ入りハンバーグ

循環型生産を守り抜いていく高橋ファーム

感動的なディナーのあとは、リビングで美味しいお酒を頂きながら、
高橋さんご夫妻と一緒に、楽しいおしゃべりタイム ♬

「短角牛を放牧することは、健康的な土壌を作る。
良質の土は、緑を育み、さらに海へ注がれ昆布に養分を与える。

まさに農業が海を育て、水産が山を育てる循環型生産をこれからもずっと守っていきたいと考えています」と、きらりと目を輝かせながらお話くださった高橋さんのお言葉がとても印象的でした。

「循環型生産を守りぬきたい」と海を見つめる高橋さん
「循環型生産を守りぬきたい」と海を見つめる高橋さん

真心のこもった朝食・海の幸を味わう

えりもの海に昇る見事な朝陽を浴びながら頂く朝食は、
奥様・秀子さんの真心のこもった手料理です。

イクラ、昆布、鮭、お豆腐、お浸し、お味噌汁等、そして美味しいごはん!
磯の香りが漂ってくるようなお料理です。ごちそうさまでした!!!

真心のこもった朝食
真心のこもった朝食

えりもの町を愛する人々の熱意が伝わってきた感動的なひとときでした。
存在する命のすべてが、お互いに与え与えられて循環し、守られていることに、喜びと感謝の気持ちでいっぱいです。

極上の美味しさと素敵な時間を、ありがとうございました。

えりもの土と緑と海を、
命をかけて守りぬいてきた人々の熱い想い。

偉大なる自然の中で育まれていく命の循環。

元気パワーが漲るえりも短角牛さんたちに
限りない尊敬と感謝と祈りをこめて。。。

高橋ファームに降り注ぐ朝陽
高橋ファームに降り注ぐ朝陽

写真(150枚)はこちら >>

✧ noboru & ikuko

短角王国 高橋ファーム「ファームイン守人(まぶりっと)」

地図:短角王国 高橋ファーム「ファームイン守人(まぶりっと)」北海道幌泉郡えりも町えりも岬 406-1
Tel:01466-3-1129 
【チェックイン/アウト】
 ・ 5月 ~ 9月 16:00 / 10:00
 ・10月 ~ 4月 14:00 / 10:00
【宿泊した部屋】 和室(2F)
【温泉/貸切風呂】無し / 家族風呂

焼肉小屋「短々(たんたん)」
 ・09:00 ~ 17:00
 ・17:00 以降は予約制(冬季も営業しています)
 ・定休日:毎週火曜日

【ホームページ】短角王国 高橋ファーム

黄倉良二さん「食べものはいのち(生命)」北竜町

2010年10月11日(月)

私達は、今年の3月末、ここ北竜町に居を移しました。自然の素晴らしさ、清らかな美味しい水、町民の皆さんの温かな真心に触れ、感動の日々を過ごしています。

そして、何より「ひまわりライス」「ひまわりすいか」「ひまわりメロン」「ひまわりの花」「黒千石大豆」など、北竜町の肥沃な大地で命が芽生え、いのち(生命)が育み成長していく様子を6か月もの間、見ることができたのは幸せでした。そのひとつひとつが感動の連続です。

ここ北竜町では、そこに息づく様々ないのち(生命)が大切に守られ育まれている、力強いパワーを感じます。町民全体が手をつなぎ合い、協力しあう大きなエネルギーの源になっているように思います。

なぜ、この町に、このようなパワーが生みだされているのでしょうか? こうして、「いのち(生命)を守り育む魂のルーツ」を探す私達の旅は始まりました。

「天と地と水 そして農民のこころ」書道の大家・島田無響氏の書
写真の左から:後藤三男八氏(5代組合長)、北政清氏(初代組合長)、
加地彦太郎氏の胸像

▶ 農協は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織

今回、北竜町農業協同組合8代組合長、及び前JAきたそらち(きたそらち農業協同組合)代表理事組合長・黄倉良二(おうくらりょうじ)さんのお話をお伺いする機会が、幸いにも与えられました。

お話をお伺いした場所は、JAきたそらち北竜支所事務所。事務所2階の階段を登った正面には「天と地と水  そして農民の心」と記される、北海道を代表する書道の大家でもある島田無響(しまだむきょう)氏の書。そこに描かれた文字に魂が存在するような躍動感を感じさせる素晴らしい書です。

北政清氏(初代組合長)、後藤三男八氏(5代組合長)、加地彦太郎氏の胸像。それら三氏の胸像は、農業の昭和史を飾るに相応しい先駆者たちの輝きを放っています。

黄倉さんは、1991年(平成3年)から農協代表理事組合長を3期9年間勤められました。毎朝、初代組合長・北政清氏を先頭に並べられた写真に手を合わせ、感謝しあいさつすることから、組合長の一日がはじまります。

北竜町農業協同組合、歴代組合長の写真

組合長でありながら「良ちゃん」と呼ばれ親しまれた黄倉組合長。農作業の迷惑にならないようにと、早朝5時前から農家を回り、組合員に声をかけ、耳を傾ける毎日でした。

まず「組織、団体を理解する上で大切なことは、社訓、組織訓を知ることである」と力強く、黄倉さんは語られました。

「農協訓は『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育むことです。農協は、先人が脈々と築き上げてきたものを受け継ぎ、この4つのことに取り組み、ずっと守り続けてきました。

人間にとって一番大切なものは、いのち(生命)。

いのち(生命)は食べもので育まれます。食べものは、ものであってはいけない。食べものは、いのち(生命)なのです。どんなに背景が変化しようと守り抜いてきたもの。

そして、先人が厳冬に耐え開墾し、耕し、守り抜いてきた大地。

さらに、地域社会の環境を守っているもの、それは水。

木が朽ちて、葉が落ち、岩や土の肥やしとなる。暑寒別連峰に降り積もった雪が、ひと雫ひと雫流れ込んでできる、生きたミネラルを含んだ水。その水が、岩や土を通ってダムに流れ込み、田んぼを潤す。その素晴らしい水がこの町には存在します。

土を汚染させ、劣化させては、いい食べものはつくれない。工場もスキー場もゴルフ場もないこの土地で、先人たちは親子伝来、いい土・いい水を、子孫に残す為守り抜いてきたのです。

110年以上、農業を営む先人たちが、築き上げ守り続けてきたこの偉業を、次の世代へと伝えていくことが、私達の役目です」

▶ 貧困を支えた町の人々の温かい思いやり

黄倉良二さんは、1939年(昭和14年)6月1日生まれ。数えで72才です。

中学生時代から農業の手伝いをし、11人家族で過ごした青年時代。3つ上のお兄様は、札幌へ大工・建築の奉公。病弱なお母様を抱え、農協からの大きな借金を背負いながらの、農業一筋の壮絶な農家の暮らし。そこには、町の人々の温かい思いやりがありました。

当時の農業は、馬そりの時代。冬の間、馬にとって、脚気にならないための大切な食べ物が燕麦(えんばく)。
「燕麦3俵買ってこい」と父親に言付かり、お金を持たずに農協へ向かう中学生の良ちゃん。農協職員は荷車に燕麦を積んでくれたものの、現金を持っていないことを知ると、荷車の燕麦を下して「お金がないなら売れないよ」。馬に燕麦を食べさせないと、馬は脚気になって、春からの農業ができなくなってしまう。

隣に住み、そんな様子を見守っていた、正当派の馬喰(ばくろう)さんの杉本清松さんが、石灰(カーバイト)の一斗缶(18リットル缶)を持ってきてくれました。

納屋で、ドラム缶2こほどが埋められる大きさの穴を掘り、藁を詰めて、よく足で踏む。その藁を、カーバイトを溶かしたお湯で浸し、丸一日置いてから馬に食べさせるのです。

こうして作る石灰藁を馬に食べさせると、太らないし、脚気にもならない。馬喰ならではの優れた技。馬喰さんとは、馬の力を最大限に発揮できる人、馬の病を治せる人。この馬喰さんのお陰で、馬に力が与えられ、春には田んぼを耕すことができました。

また、近所に住んでいた盲目のおばあちゃん。このおばあちゃんは、家にいながら、道行く人の足音だけで誰だか解ります。

ある日、おばあちゃんが「良ちゃん、良ちゃん、ちょっとよってけ」と声をかけてくださいました。行ってみるとそこには、当時食べたことのない、お砂糖がまぶされたきな粉餅。遠慮しながら食べると「良ちゃん、うまいか。食べてけ。遠慮せんで、いっぱい食べてや」。。。

生涯忘れる事のできない、おばあちゃんの温かい言葉と甘いきな粉餅の美味しさが、貧しい生活の苦しさを乗り越えていくことのできる大きな力となりました。

可憐な花@道の駅「花夢」(北海道西興部村)

青年時代は、毎日、朝は5時から夜8時まで農作業。その後、走ることが好きな仲間とともに、真っ暗な砂利道10kmをマラソンをして過ごしました。

25歳(1964年・昭和39年)から49歳(1988年・昭和63年)までの24年間、深川地区消防組合北竜消防団第一分団に所属。北竜町体育指導員としてスポーツの指導に貢献。1967年に、町は道内二番目の「スポーツの町」宣言をし、また、自ら「北空知駅伝大会」に連続40回出場。この記録は、黄倉さんお一人が保持していらっしゃいます。

青年時代の苦しい生活を見守り、走ることを応援してくださった北竜高校時代の上田孝先生のお言葉。
「良ちゃんは、貧しいけれど、食べものがあるでしょう。都会では、赤貧の生活で、食べものがなくて苦労している若い人がいっぱいいるよ」
この先生のお言葉は、農業の苦しい生活のなかで、一筋の光となりました。

“農業に勤しむ、若き日の黄倉良二さんの写真

▶ 農業とは、安全な食べものを生産すること ―食べものはいのち(生命)―

農協活動は1965年(昭和40年)から北竜町農協青年部理事、監事、副部長、部長と就任し積極的な青年部活動を展開していきました。
1973年(昭和48年)、34歳で農協理事に就任して以来、2000年(平成12年)2月の広域合併に至るまでの27年間、北竜町農協の仕事に心血を注ぐ人生を過ごされたのです。

黄倉さんは、偉大な人々との出会いによって、農業に対する想いを確立されていきました。

当時、北海道の自然農法の先達・佐藤晃明さんの田んぼ(当別町)に勉強に行ったとき、畦を歩きながら問われた御言葉です。

「黄倉さん、農業って何だかわかりますか?」

中学生のときから20年間、ただひたすら一生懸命、借金を返すためにやってきた農業を、言葉に表すことができず、答えることができなかった黄倉さん。

「農業って、安全な食べものを生産することなんですよ」

佐藤晃明さんのこの言葉は、黄倉さんにとって、青天霹靂であり、農業に対する考え方を根本から変えました。

たわわに稔る北竜町の稲穂

さらに、黄倉良二さんの人生に大きな影響を与えた人物である、5代目組合長・後藤三男八(ごうとうみおはち)氏。1955年(昭和30年)から、6期18年間、組合長を務められました。

後藤三男八さんが退任される前年の1972年(昭和47年)11月2日。当時34歳の黄倉さんは、農協の理事に推されていました。後藤さんから、部屋に呼ばれて、伝えられたことは、

「私は来年辞める。まだ若いおまえは、農協理事の器とはいえない。不満だが、なることに反対はしない。後を頼む。ただし、言っておく事がある。」

「お金が貯まったら、まず本を買え」

「これからの時代、やがて食べ物がなくなる。そのことを考えて、自らの農業で実践し、農協の事業計画を作れ」

「『地位と名誉と金』を求めるな。農協の役員をやっていると、やがてこのことに遭遇する時が訪れる。その時に毅然と対処できるようにしておけ」

「自分に対する世の中の評価は、組合長を辞めてから10年後に表れる。農協とは、役員のものではない、職員のものでもない、それは組合員のものである。必ずそこに立ち返れ。何か問題が起きて迷った時、どうすることが組合員の為になるかを考えよ。そこで出た答えに従え」

まさに、こうした後藤三男八さんの想いが、黄倉さんのその後の人生を方向づける礎となりました。

“天と地と水 そして農民の心

▶ 組合員のための農協

黄倉さんは、1973年(昭和48年)、後藤亨氏(後藤三男八氏御子息)とともに「自然農法米(化学肥料や農業防除をしない米づくり)」に取り組み始めます。

この米づくりは、公害問題が厳しくなってきた15年後の1988年(昭和63年)6月に開催された農民集会で、農協青年部の「国民の命と健康を守る食糧生産」の宣言として認められ、北竜町に着実に浸透していきました。こうして、町をあげての安全・安心な食糧生産であるクリーン農業への取り組みがスタートしていったのです。

1993年(平成5年)戦後最悪の大冷害。1995年(平成7年)食糧管理法が53年ぶりに廃止。水田面積増加、栽培技術の向上による米出荷量の増加等に合わせ、保管米の良質な味を維持するための農業倉庫の新築が求められるようになりました。

将来に向けての農協広域合併をも考慮に入れ、米を保管・管理する低温倉庫建設への取り組みもすすめられていきました。一番の課題は、合併までに米が15万俵入る低温倉庫2棟の建設でした。

当時、農協の資金繰りは苦しく、倉庫建設のために、組合員にさらなる負担を強いることはできません。「しかし、どうしても合併に向けて、低温倉庫の建築は必要である」と黄倉組合長は悩みました。

そこで、建設費を今までの半額にする方針で、従来とは異なる方法で、競争入札を実施したのです。半額で落札できる訳がない、などの非難を受けながら、最終的に、いままでの半分近い建設費用で、低温倉庫を建設することができました。組合員のために何ができるか、その想いが建設を可能にしたといえます。

また、農協職員の意識改革にも取り組みました。当時の農協の貯貸率(※)は高く、組合員からの返済利息が、収入の一定部分を構成していました。(※ ちょたいりつ:貯金残高に対する貸出金の割合を表した数値のこと)

黄倉組合長は、職員に「皆さんの給料の原資は、組合員の利息で成り立っているという現状を認識してください」と説いたのです。「食べものはいのち(生命)」「農協とは『いのち(生命)・食糧・環境・暮らし』を守り育む組織」、そして「農協は、組合員のためにある」ことを毎日繰り返し、職員に伝え続けました。さらに、貯貸率60%を目指して、事業利益が上がる組織形態・事業に取り組んだのです。

2000年(平成12年)、北竜町農協は、8つの農業協同組合の広域合併によって、北竜町農業協同組合から、きたそらち農業協同組合(JAきたそらち)北竜支所へと変わりました。対等合併でした。
黄倉さんは、合併時にJAきたそらち代表理事専務に就任。2002年(平成14年)から2007年まで、代表理事組合長に就任されました。

▶ 低農薬栽培に全町挙げて取り組む。―日本初「生産情報表示農産物JAS規格」をお米で取得―

1997年(平成9年)に、有機JAS法の有機農産物及び特別栽培農産物に関わる表示ガイドラインに「麦」「米」が追加されました。こうした時代の変化に合わせ、北竜町全戸による、低農薬栽培米への取り組みも大きく進歩していきました。

2005年(平成17年)6月、生産情報表示JAS規格が、すべての農産物に適用拡大されました。

北竜町は、全町あげて栽培協定を策定。これに基づき、ひまわりライス生産組合では使用農薬を統一し、低農薬栽培(※)への取り組みを開始。(※ 慣行栽培基準の5割減:北海道の農家が使用している農薬成分の平均22成分を11成分に半減)

さらに、2007年(平成19年)に、トレーサビリティー(生産・流通履歴を追跡する仕組み)を認証する「生産情報公表農産物JAS規格」を取得し、WEB上での情報公開を開始しました。

米の栽培で、200戸近い農家が所属する生産組合が「生産情報公表農産物JAS規格」を取得したのは、日本で初めてのことです。また、現時点でも同条件で取得している組織は、北竜町ひまわり生産組合、唯ひとつです。

北竜町では、生産者のひとりひとりが「食べものはいのち(生命)」の心を、消費者へ伝える農業がずっと続けられています。これは、たくさんの先人方の魂が、今に伝えられ、守られているからこそ成し得ることだと感じます。

▶ 百姓をしてきて、本当によかった

現在、黄倉良二さんは「北海道の有機農業をすすめる会(麻田信二代表)」の顧問を勤められています。
「食べものはいのち(生命)」の魂を伝えるために、自ら農業を続けながら、日本中を駆け巡っていらっしゃいます。

「日本の農業は、水を守り、誇りうる土を伝承しながら安心・安全なたべものをつくっていく。いのち(生命)を守り、世代を超えて農民の魂を磨き、伝えていく。いままでずっとやってきた農業。そしてこれからもやり続ける農業。

この農業を続けられるのは、妻がいつも一緒にやってきてくれたお陰です。そして、今は、息子夫婦が有機農業をやり続けています。ありがたいことです。

百姓をしてきて、本当によかった。

いのちを守っていける農業ほど幸せな仕事はないよね」

菩薩様のように穏やかな笑顔で語る黄倉良二さんは、高貴な光で輝いていました。

「百姓をして、本当に良かった」と語る黄倉良二さん(72歳)

「天と地と水 そして農民の心」
天の恵み、誇れる大地、清らかな水、
いのちを育み、守り続ける農民の魂。。。

生命あるすべてのものが、
結びつきひとつとなって繋がっていくことのできる幸せに
無償の愛と感謝と笑顔をこめて。。。

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